デジカメ農作業日記 (2006年1月)

2006/01/28
 うまいお米作りに 欠かせない 米ぬかの散布を始めました。玄米を精米(白米)する過程で 玄米重の約1割の米糠が出ます。 一年間では、大量の米ぬかになります。

 田んぼの土のなかでは 多くの微生物が生きています。 米糠は、多くの微生物達の 餌になります。 土作りは 比較的時間が取れる 今の時期・冬季間の大切な 仕事です。

 有用な微生物が元気に働く事により、お米の微妙な味わいに関係していると思われる、有効なミネラル分が有効化しお米にも蓄積されます。 ミネラル分たっぷりの 美味しいお米 味わい深いお米づくりには 欠かせない大切な作業です。

2006/01/27
 日本海側は、大雪だというのに、角田は田んぼに雪はありません。

 朝6時50分過ぎ、あぶくま山地から朝日が昇ってきました。

 朝から、いい天気。 しかし、デジカメも手が かじかみます。

 涙も出てきます。寒さが厳しい朝です。

2006/01/26
 今日の天気は、目まぐるしく変わる一日でした。 午前中 客土作業中 もの凄い吹雪に。 強い西風と共に雪。

 少し遠くの田んぼだったので、雪の中作業続行。 この吹雪も昼まで。

 午後には、回復。 一時 真っ白になった田んぼ。 すぐに消えてしまいました。

 気が付けば、一月も後半。 もうすぐ2月。

 なんとなく日差しは 明るく感じます。 夕暮れも 遅くなりました。確実に日が長くなりました。

 PM5時15分。 まだ、明るさが残っています。

2006/01/21
 夜7時30分〜10時30分 東京NHKスタジオで「日本の、これから」
「増税しかないのか」というスペシャル番組に行ってきました。
これまでの、NHKの番組とは一味もふた味も違う 討論番組という
触れ込み。 
生放送という事で、どんなことの仕掛けになるのかと興味津々 家を出かけました。
午前中に あぶくま急行で いざ東京へ。
あぶ急の車窓からはきれいな 蔵王の山々。


 ところが 新幹線も大宮付近に来ると なんと銀世界。
渋谷駅からNHKまでそう 時間もかからないので徒歩で。
結構 雪が降っています。時間も少しありましたので先ずは、ホテルでチェックイン。
傘を借りてNHKへ。
NHK付近も 雪化粧。
スタジオパークのある入り口ではなく、ほぼ反対側の西口から中へ。
本番前は、控え室のスタジオで簡単な 打ち合わせと 軽食。
本番のスタジオは、101スタジオ。 たしかNHKのなかでも一番大きいスタジオかな。


 本番30分前にスタジオへ。

 意外と簡単なセット。
これも、経費削減。
司会は、三宅キャスターと伊藤アナ。
触れ込みどおり、生放送というのに 進行の打ち合わせは 殆ど無し。
最初のスタート場面だけ 一回練習。
三宅キャスターから NHKの番組とは思わないで民放の番組と思って・・・・。
あとは、流れの如く。
ここ数年、NHKも受難続き。
内部改革を 必死に模索している様子。
数年前に 来た事がありますが、NHKの玄関を入って感じたこと、全体に「質素になった」。 
以前は、NHKの権威のようなものを肌で感じましたがまるっきり別世界。
考えて見れは 権威なんてクソ食らえ、ですよね。
いかに視聴者の為になる番組を作るかです。
NHKの職員によれば、ここ数年 給料は下がるは、もちろんボーナスもダウン。
お陰で、NHK界わいの飲食店も そのあおりを受けて静かになったとか。


 番組は 約3時間の生放送。
[増税の前に やるべき事があるのでは] という趣旨で討論。
谷垣財務相の他 エコノミスト等のパネラーと 50人の全国から集まった市民。
50人の市民の一人として 討論に参加。
結論から言えば、 こちらが認識不足でした。
生放送ということ 忘れていました。
もったいない・・・・・。
考えてみれば、これで良かったのでしょう。
私は、やっぱり田んぼに出てなんぼの人間でした。
それを再認識させていただき 感謝です。


 東京から帰ってきてから チョット思うことあって
思考停止になりかけましたが、なんとか 元通りの回路に
復活できそうです。
自分達は、極めて 危うい世界 日本に生きているのだ。
実態(汗)を伴わない 友人が言ってた言葉 「蜃気楼の言葉」に 着飾った世界。虚構の世界。
今、そんな 一瞬にも崩れ去る世界の中に生きている。
一番 まずい事は、その世界に対し、不自然さを感じない
自分達。


 最も 肌で感じているのは、現場で汗をかいている人々。
多くの、人たちが じっとその行方を見ている。


 先日 ある先輩が 酒の席で言っていた言葉。
「自分の生き方。 自分はたぶん100であろう。
地域の中には、10の人もいる。自分は、業界のトップ、1,000をめざそうとすれば できるかもしれない。
しかし、1,000は目指さない。
100の人もいれば10の人もいる。 そんな地域で生きていく」 


 たぶん、多くの百姓の 大先輩達は、こんなローカルな世界
のなかで、生きてきたのではないか。
それを、否定する事で 発展という名に酔いしれ 蜃気楼
の世界を 皆で 謳歌して成り立つ 危うい世界。
自分自身に問うべき 事は、 そのことではないか。


 日常の百姓の世界で、それをどのように 実践するか。
これが、大きな課題だ。
潰されそうになりましたが、またもやファイト!!です。

蜃気楼の言葉や虚構の世界を、演出してきたNHKという巨大メディアの中枢を垣間見て 感じたことです。


2006/01/18
 小正月の14日団子さしを行ないます。
この行事も年々 実施する家も少なりましたが、まだまだ方々の家で 見かけます。


 ミズクサ、ヤマカ等の木にさし、神棚はじめ、部屋々々に飾ります。
明日(19日)に、14日に飾った団子を木からとります。
この団子は、「20日の風に当てるな」と言われていて、19日の朝に必ず取り外します。


2006/01/16
 午後から角田市農業振興社 戦略会議・農業経営実践塾の合同会議。
今回のテーマは、あぶくま農学校の商品開発システムの今後の展開について。
今回は、進行役。 講師として デザイナーの吉田さんに来てもらい、 あぶくま農学校のブランドデザイン構築の仮説に基づいた 話を聞く。
今日の吉田さんの話は、仮説として話してもらったが、これは仮説ではなく 今後事業として実際に展開する事であり、公社の理事長もゴーサインを出している。
皆さんの御意見をいただいて 仮説を実践するか しないかということで 話をする事ではない。 今後 どのようなシステムを構築して事業展開すべきかを話題にする。という切込みで 話を進める。


  たくさんの意見が出ましたが、今日の吉田さんの話は仮説ではなく実践として進める」 という事で 終始会議を進めました。
あとは、実践システムの開発あるのみ。


2006/01/14
 小正月です。夜 集落内のお寺の境内で ドント祭が行なわれます。
昨日までの真冬の寒さが うそのよう。
小正月に雨です。
ドント祭に雨。最近の記憶にありません。


 各家庭の正月飾りを持ち寄り、
団子さしをするのも、14日です。
この日は、夜 小豆粥を炊きます。
小豆粥を神様にお供えし、家族揃って食べます。


 また、取りはずした〆縄やオトシナに 暁粥をかけてから、ドント祭で燃やします。
子供の頃は、ドント祭はしませんでした。
鳥追い行事で、〆縄やオトシナを一まとめにして箕の中に入れておいたものに暁粥をかけ、表座敷の縁側からヤーホイホイと家族が大声をだしてその年のアキの方角にある木を選んでその木に送っていました。


2006/01/12
 昨日 11日は農のはじめ。
本格的な農作業のはじまりです。
今年は、12日から田んぼ仕事。


 日本海側は、大雪被害が出ているというのに、こちら角田は
田んぼに雪がありません。
昨年購入した田んぼの 客土作業を始めました。


 稲作は、田植えをしてから始まるものではありません。
基本的な土作りは、田んぼに水が入らない、今の時期 冬の間に
しなければなりません。


 特に、客土などの土の作業は重労働。
しかし、今は機械でしますので楽です。
要するに、やる気があるか・・・です。


2006/01/11
 今日は農の初め。

 朝早く起き 我が家では今年使う種モミに飾っていたオガンマツを下ろし昔 苗代に使っていた田んぼにもって行き、3本鍬(昔田起すに使っていた鍬)で数回田んぼを 耕し ワラを1把横にして その上から
オガンマツを立てます。


 そして、今年の豊作を祈願して手お合わせます。
今年も、いよいよ百姓仕事が始まりました。


 年末以来 たいへんな寒さが続いています。
今朝の最低気温はマイナス5度。


 今日は、日中5度まで温度が上がり久しぶりに ホット一息ついた感じ。
しかし、毎日が冷蔵庫のなかで生活しているようです。


2006/01/03〜07
2006年1月3日〜7日までタイ国イサーン地方(タイ東北部)行ってきました。
今回は、昨年4月角田女子高が宮城県男女共学・高等学校統廃合により97年の歴史に幕を閉じたのを契機に計画されたものです。
8年前に旧角田女子高生徒会等が中心になって、イサーン地方の農村自立協力の一環として贈った、「足踏みミシン」の活用状況を検証することにより今後の女子教育支援事業の可能性を探るため行ってきました。 旧角女と隣町の伊具高校で40年以上前から裁縫の授業等で使用した「足踏みミシン」を償却処分する際、タイ・イサーン農村婦人の自立のために役立てて欲しいということで、両校の生徒会が中心となり贈ったものです。 このプロジェクトのお手伝いをしたことで今回一緒に同行することになりました。
 東南アジアと聞くと、その言葉自体に日本人は優越感を感じるようです。 
「東南アジア諸国よりも日本は全ての面で先進国だ。 遅れている東南アジア諸国に支援してあげる。それが 日本の役割・・・・」   
 今回参加した角女OGの皆さんも、少なからずそう思っていたと言います。今もって、多くの日本人の潜在意識として残っているのも現実でしょう。 
タイ・イサーンの村々を訪れ時代の流れに遅れまいと必死に生きようとする姿を目の当たりにし 
「支援する国・日本から支援される国・日本へ」
そんな近未来の日本の姿を予感したのは私一人ではなかったでしょう。
支援から協力・連帯へ。 いまこそ行動が求められている時代なのだと実感した旅でした。
先ずは、写真の整理をしながら、随時説明していきます
page top ▲

2006/01/04〜07
 朝 5時起床。
外は 真っ暗。朝7時前頃に朝日が昇ってきます。
バンコクからイサーン中心都市 コンケンへ。


 バンコク空港は もの凄く大きな空港です。
国際線と国内線が隣り合わせ。
約1時間でコンケンへ。


 8時30分 コンケン空港到着。
飛行機から眺めるイサーンの耕土。


 赤茶けた大地が目立ちます。
見るからに 痩せた大地。


 10年前と比べ緑が 多くなった感じ。
タイは、今の時期 乾季。


 上空から見るとコンケンの市街地は 道路網も整備されて様です。
観光地でないので 日本人は私達だけ。以前よりも多くの人種が乗っている感じ。


 空港には、現地NGO 角田にも研修に来ていた ムアイさんチャナさん夫婦がお出迎え。 
3年前と比べてコンケン空港は、拡張され空港ターミナルも近代施設に
生まれ変わっていました。
15年前始めて コンケンに来た時 田舎の駅程度の空港。
搭乗前のチックする空港管理官の女性と一緒に並んで写真撮影したことが懐かしい。


 ムアイさんは、村の縫製品等を販売する店を10年前から始めました。
「スープサン」というブランドで製品作りを開始。
郊外にあった店を 最近 コンケン市内に移したとか。
店の家賃が上がったものの、市内の若者も店にやってくるようになったいう。
タイでは 現在 日本の大分県で行なわれた一村一品運動に似た 活動が盛んになりムアイさんは、成功事例として 全国各地に農村に呼ばれて講演していると言う。


 タイのNGOは 10年前 全国に二千程あったと言います。
しかし、10年前から 欧米からの援助資金が途絶え始めてから 徐々に消滅していったと言う。
それを見越して、ムアイさん達が働いていた公式NGO「ネルダ」(現在も存在)は、農村の自立支援活動と共に 自らのNGOスタッフの自立の道を 模索したと言う。


 ムアイさんは、大学でデザインの勉強したのを活かすため 農村婦人たちと一緒に伝統工芸品の開発をはじめた。
現在、イサーン全土に約40の村々と交流し、マーケッテングを重視した 製品開発に努力したと言う。


 農村開発に携わるNGOとも云えども、マーケッテングを無視したプロジェクトは殆ど失敗し NGO活動もおぼつか無くなっているようだ。
ムアイさんの活動を支えているのは、角田に来て仙台の縫製専門学校に通った事も大きく要因のひとつになっているという。嬉しいかぎりである。


 コンケンから今晩の宿泊地 タラート村へ。
車で約2時間。


 15年前はいたるところ 工事中だった国道もスッカリ完成。
高速道並の100キロでのスピードで村へ。


 大陸らしく どこまでも続く一直線の道路。
道路の脇には、地元の人がいたるところに 店を出している光景を見かけます。


 ムアイさん声がけで、蜂蜜を売っている店で 蜂の子を賞味。
なんとも不思議な味。
1時間程走って 昼食。


 いつでも立ち寄る ポンの町で昼食、市場見学。
ムアイさんの案内で、食堂へ。


 タイラーメンをたべました。一人前 50バーツ約170円だったかな。
ポンの市場も3年ぶり。


 市場は、生活の匂いが プンプンして楽しいです。
生魚から果物、日用品、何でも売っています。


 町の様子は、殆ど変わりませんが 町全体が綺麗になった感じがします。
明らかに、ゴミが少なくなっています、そのせいでしょう。


 町の種苗店も いつものように見学。

 以前あった、ドイツの有名製薬会社製のドクロのマークが付いた
農薬はサスガに姿は消しました。
 
タイでも、農薬の規制が始まったと言う事か。
危険な毒物使用は、少なくなったと言う事を聞きました


 午後3時頃 バン・タラート村に到着。
村の機織グループのリーダー ピンおばさん達の出迎えを受け、小松先生の講和を聞きながらイサーン地方の開発の歴史を勉強。


 日本の真夏のような 暑さ。
乾季で一年で一番過ごしやすいというものの、日差しは強く動くなくても汗がじっとりと噴出してきます。
しかし、バンコクは空気そののもが湿気を含んでいますが、ラオスに近いコンケンは内陸部 空気は乾いています。
かつて、タイは森の国と言われていました。
このイサーン地方も、熱帯原生林に広く 覆われていたといいます。
この地で暮らす人々は、森の恵みに支えられ生活していたといいます。
自給自足の豊かな生活があったと言います。


 それが、今から40年〜50年前頃からヨーロッパ等の開発の手が入り 多くの森が切り拓かれ その木材の一部は日本にも輸入された事でしょう。
拓かれた大地は、農地として利用されキャツサバ等が栽培されヨーロッパ等に家畜の餌として輸出されたと言います。
近代農法により化学肥料が大量に投入され、結果として熱帯特有の痩せた赤土とあいまって極端に土壌環境が悪化したと言います。
イサーン地方の農家は、農地開発によって一時的には収入が増えたものの、貴重な土壌資源が破壊された事により 借金だけが残ったと言います。
バンコクには、有名なスラム街クロントイスラムがあり、バンコクの大きな社会問題となりましたが 都市の問題の根源は地方の問題に根ざしています。
生活の糧を失った多くのイサーン地方の農民は、かつてNHKスペシャルで「全てはバンコクへ」というタイトルでタイを紹介した番組がありましたが バンコクに出稼ぎへ行ったと言います。
貧しさからの再起を目指し、タイで最も貧しいイサーン地方の農民と共に歩んできたのがムアイさんや御主人のチャナさん達が所属していた現地NGOネルダでした。


 先ず、手がけたのが村に入り 村の人たちの経験に学ぶ。同じ目線で「豊かさとは何か」
という基本的な問題を自問自答しながら農村開発に取り組んできたと言います。
昔からの村に伝る伝統農法に注目、伝統的な生活の知恵に学び、森の復活の事業等も
手がけました。
イサーン地方では、多くのため池をみかけます。
この地方で、先駆的に池堀を手がけたのが ピンおばさんの御主人 チャンリー爺さん
です。 池堀を始めた頃には、地域に人から白いまなざしで見られたといいます。
池を作ったことにより 乾季に自給野菜の栽培も可能になったといいます。
時間と共に、イサーン地方にため池プロジェクトは広がっていきました。
日が沈むと共に 内陸のイサーンの村は気温が徐々に下がってきます。


 主婦グループのリーダー、ピンおばさんの家にグループ員が集まり夕食の準備。
村のお母さん達と一緒に、夕食をとります。
夕食後、村の伝統楽器の演奏。
イサーン独特の楽器 ケーンの演奏を披露していただきました。
イサーンの緩やかな時間と共に 独特のリズムが響きます。


 村の子供達も加わり踊りの輪が広がりました。
角田女子高卒業生の皆さんも、角女の校歌を披露。
50年前、日本宮城角田の角女で活躍した「足踏みミシン」。
そのミシンが遠くタイ・イサーンの地でしっかりと息づいています。


 昔 足踏みミシンは 嫁入り道具。 作りは丈夫でメンテナンスも容易です。
タイに来て8年。 その中には 役目を終えたミシンもありますが、今でも
仕事をしています。


 イサーンの夜に 角女の校歌が響きわたりました。
日本の女学生が学んだ「愛踏みミシン」 50年の時を越え、何千里 遠くタイ・イサーン
の地で 農村婦人の自立のために 現役で働いています。


 朝7時前 イサーンに朝日が昇ってきます。

 朝方にかけ、一気に気温が下がります。

 それぞれの農家では、牛を飼っています。
最近は、田んぼの耕起はトラクター等でやるようになり
牛で耕すのは少なくなったとか。
水牛の姿は少なくなり、肉用の肥育牛が多くなったといいます。
朝、それぞれの農家から 牛を連れて田んぼに向かう光景がみられます。


 朝方にかけ、一気に気温が下がります。

 村には お寺があります。

 タイは仏教の国。
お坊さんの国でもあります。


 タイ国の農村に行くと ホット 安心するのは日本と同じ仏教を信じる国民性だから
でしょうか。


 朝7時 村のお寺に村のお母さん達が、お盆に それぞれの家庭で料理した朝ご飯
を持って集まってきます。


 タイのお坊さんは、働く事を禁じられています。常に人々からご飯をいただきます。
また、お坊さんになったら 決して女性と交わることは出来ません。


 それぞれの家から持ち寄った ご飯(イサーンはもち米が常食)は お坊さんの脇に
に置かれた おひつの様な容器に移しお坊さんが食します。


 毎日 繰り返される光景です。

 1週間に一度 村の人々が全員集まり お祈りの集会があるとか。

 朝ごはんの準備が出来た頃、和尚さんのお勤めが始まり、集まったお母さん達も
一緒にお祈りします。


 お勤めが終わって初めて 朝ごはんが 始まります。

 村の家庭料理が 一同に集まります。

 珍味の揃い踏みといった感じ。
カエルは序の口。タガメ、蜂の子、等。 サスガにカエルの半生状態(カエルの漬物か?)の食べ物はには
誰も手が出ませんでした。


 肉類は 何でも美味しいです。卵料理も美味しい。
イサーンの食べ物は とても美味しい。


 村には 音楽を鳴らしながら行商の人がやってきます。
魚醤(ナンプラー)等 日常生活食品を持ってくるようです。


 ホームスティーしたお家の人と記念撮影。
ピンおばさんのところにも、8年前に贈ったミシンが息づいています。


 タラート村は、主婦グループによる機織物が盛んな村です。
ピンおばさんは、そのリーダーです。


 ホームスティーしたお母さんは、機織の名人。
朝から晩まで 一日で織るのは 精々3メートルだとか。


 昔 養蚕の盛んな角田でも こんな風景が見られたことでしょう。
機織のお母さんが着ている服も自分で織った服のようです。


 子供達も、近寄ってきて遊んでいます。

 子供の目は、実に澄んでいます。

 今回参加した最高齢者73歳の前角女同窓会長さん。
最初は、村に泊る事に大きな不安。
一夜 明けての感想。


 「泊った家のお母さん、子供の頃育った実家の隣の おばちゃんに雰囲気が
そっくり、懐かしくて懐かしくて・・・・・
隙間だらけの板の間の2階に 家族と一緒に寝たがスッカリ熟睡してしまったという」


 それにしても、朝方は 気温が急激に下がります。それでも、毛布一枚でなんとか
過ごしました。


 例の如く 朝暗い早朝よりオンドリの鳴き声で目が覚めます。遠くからのお寺から
お経を唱える声が聞こえてきます。


 イサーンの朝は オンドリの鳴き声で始まります。

 タラート村の 機織グループは昔ながらの 伝統的な染めにコダワッタ機織を継承
しています。


 染めの原料は、昔 森から採って来たといいます。
ヤニの出る木は、基本的に染めの原料になるのそうです。


樹皮を煮詰めて染めの素を作ります。
伝統的な機織物の復活は、 森の再生なくして継承できません。


 8年前 角女と伊具校から送られたミシン 50台は 今 いろんな村で活躍しています。

 8年も立ちましたので故障で動かないミシンもありますが、故障知らずで 元気に動いている
ミシンがたくさんあります。


 日本製のミシンは、出来が違うのだそうです。サスガに 昔は嫁入り道具にミシン。
主婦グループのそれぞれの家庭に ミシンが置かれ活躍しているミシンもあれば
数台まとめて写っているミシンは、地域の縫製関係の講習会等に貸し出すために
保管している物だと言います。


 村はずれには、ムアイさんの旦那チャナさん達がNGOネルダに所属していた時代
ノルウェーの基金団体レッドバーナードから
資金援助を受けて 掘った大きなため池。
今では、このため池から 各家庭に水道水等 生活水として利用しているようです。


 村のお母さんが 田んぼに牛を連れて行く様子。
田んぼ仕事は、機械でやるようになり水牛は少なくなったといいます。
写真の牛は、インドの牛。この村では、子とりの為の 繁殖牛が盛んのようです。
子牛と連れ立った 牛をたくさん見かけます。


 村の中にある 精米工場。
日本にも昭和の初期には こんな機械があったようです。


 ミシンを使っているというお母さんを訪ねました。

 このミシンは、本当に故障知らずだといいます。

 この外に、小さな工業用ミシンもあり、2台のミシンで縫製の仕事をしている。
このミシン「宮城県伊具高校」という備品録が残っていました。


 間違いなく 私たちが贈ったミシンです。
村で糸を染め、機織し、村で縫製をする。
その製品を ムアイさんが 商品として販売する。
そんなシステムがこの10年間で出来上がったようです。


 タラート村の 祈祷師(シャーマン)トンリィー爺さんが 旅立つ日、村の人たちも
集まり バーシースークワンの儀式をしてくれました。


 無事に帰国できますようにという 旅の安全祈願とも言うべき儀式。

 トンリー爺さんは、87歳とか。

 昔ながらの 本格的な儀式をする シャーマンは少なくなってきていると言います。

 お祈りの儀式が済むと、手首に麻糸を結んでくれます。

 近くにいる人が それぞれ結ぶ時にそれぞれ手を差し伸べるのだそうです。

 *

 *

 タラート村(イサーン)に関する記述は、小松先生が日本で一番詳しく残しています。
小松先生とピンおばさんとトンリィー爺さん この3人の絆は25年以上に及ぶと言います。


 小松先生のイサーン訪問は40回以上に及ぶと言います。

 タラート村から次の村 ノンドゥー村に向かいました。

 その途中、私たちがイサーンプロジェクトで最初に建設した15年前 ウエンノイ共育農場に寄る事にしました。
今は、この農場は 現地NGOネルダの活動が休眠状態になった為、活動を休止しています。


 地元の農家さんが 仮住まいして建物を維持しているようです。

 それにしても、懐かしい建物風景です。

 今回 ネルダ代表 ヨンユットさんに会い 建物の維持管理を要請してきました。

 ノンドゥー村でミシン工房をしていた パヤットさんの御家を訪問。
連絡が上手くとれず、あいにくの留守。


 現在ミシン工房に 集まり共同作業してないとの事。
ミシンを それぞれの家庭に 分けて仕事を分担してやっているとの事です。
共同で仕事を進めるだけの仕事が 無くなったことも大きな原因とか。
新しい商品の開発と 新たな需要の開発が無ければ 仕事の継続も困難と言う事でしょう。
つまり、日本の村おこしにも 相通じることで 経済として成り立つシステムをどのようにして確立出来るか。


 タラート村でも話題になった事だが、チャナ曰く「 ムアイのお陰で仕事が増えて現金収入が増えた。
しかし、忙しくなった分 昔のゆっくりした生活が懐かしい と 村人は言っている」
伝統工芸の復活 それは 生活そのものの復活を意味することであり、その地域の生活を支えるだけの 経済的基盤を構築しないかぎり継続は ありえない。
日本でも、一時的に村社会によそ者が入り いくら伝統文化の大切さ継承を 唱えたとしても一時的に注目されても、そこに住み続ける人々が 自らの生活に根ざした伝統文化で無いかぎりいつしか 消えていくに違いない。それは、単なる「余計なお世話」と言うものだろう。


 近代的生活を超えるためには、近代化の現実を 真正面から受け止め、その実体験を自らの生活体験として昇華しその上で伝統文化を あらためて自分のものとして再構築
しない限り ムラ社会における 伝統文化に根ざした新しい生活文化の再興はないのでは。
経済発展を 何処まで良しとするか。
現在 タイの王様は、 国民に 盛んに「足るを知る」という事を知らしめていると言う。


 そんな事を考えさせられた 旅でもありました。

 今回 同行した前角女 同窓会会長さんは 元教員。しかも、東北で始めて市議会
議長を務めた方。 云わば、地方の超インテリさん。
そんな事もあって、教育問題に 大いに関心あり。


 「タイの教育水準が低いので エイズ等の社会問題が存在するのでは」という考えが頭にこびり付いている。
そんな事は、無い。教育の重要性はタイ政府の真剣に受け止め力を入れている。
少なくとも性教育に関しては 日本よりもはるかに進んでいると何度 話しても納得いかない様子。


 教育現場が観たいとしきりに リクエスト。
しからば、と思い。 急きょ アポなしで ノンドゥー村の小学校見学と相成りました。


 車で、突然乗り付けると 丁度 昼休み。
校長先生に 話ししたら快く 大歓迎。
子供達と一緒に 写真を撮れと盛んに アドバイス。


 それにしても、子供はイイ。

 タイの子供達は、元気イッパイ。

 15年前は、学校に行けない子供がいたが 現在はそんな事はなくなったようだ。
それぞれ、立派な制服を着ている。


 タイ国でも、中学校まで義務教育だという。
突然の 大歓迎に訪問したこちらが ビックリ。


 帰ってきてからの 大先輩の感想。
タイ及び東南アジアの情報は、今まで 「何だったの」


 現実の世界は、日本で聞いた生活情報とは大違い。
支援する、支援してあげる なんて言葉は おこがましい。
これから、東南アジアの人達とどのように手を取り合っていくか 真剣に考えないと
恥ずかしい。


 そんな感想を 真面目に言ってました。
イサーンの雰囲気は 行った者でしか 分からないかも。


 イサーンの村から 再びコンケンの町に向け車で移動。
赤茶けた大地が広がっています。
誰かが テレビでしか観た事無い 風景だわ!!


 コンケンのホテルに、NGOネルダの代表 ヨンユットと懐かしい再会。
ヨンユットは、過去に国王から地域振興に功績があったとい事で 表彰された人物。
彼は、現在 伝統医療の再興と その振興の為 専門学校を創っているという。
また、タイ政府内の 伝統医療に基づいた地域医療の確立プロジェクトの助言者として
活躍しているという。


 コンケン最後の夜は、コンケン郊外にある 湖のほとりにある レストランで食事。
2003年エイペックの国際会議を開催したレストランだという。


 しばし、政府高官になった気分で 食事。
良い所だったよ。


 コンケン空港を後にして 一路バンコクへ。

 今回は、時間が無く 観光をする時間は 殆ど無し。
しかし、同行した石丸さんの案内で 車をチャーターし 効率の良い市内観光へ。
エメラルド寺院は 3時で見学終了。そのため外から雰囲気だけ眺めることに。
それにしても、いつ観ても派手派手の寺院です。


 その後チャオプラヤ川の船下り。
観光船をチャター。一人600バーツを 交渉の末250バーツに。
それにしても 水上から眺めるバンコクは格別。


 タイ最後の夜は、石丸さんに 事前から予約しておいてもらった バンコクでも
有名な高級中華レストラン。


 8年前に角田に3ヵ月間程 研修した元NGOネルダスタッフの ニン と再会。
ホント8年ぶりの 再会。
彼女は、日本で言えば厚生省の外郭団体で 全国の県・市町村の保健医療プロジェクト
に対する基金の審査機関に勤めているという。
友人と2人で来てくれました。
懐かしい事懐かしいこと。
角田から帰ってからNGOで働き その後 コンケーン大学で学び 現在の職に付いたといいます。


 タイでは、エイズの問題よりも 子供達の麻薬の問題が大きな課題だといっていました。
バンコクの空気は 悪いので 田舎が恋しくなる。毎週 実家の田舎に帰るといっていました。


 彼女は、角田に来る前ににも日本で1年ほど研修した経験があります。
日本語は、話す事は少し難しなったが 話している事は大体 分かるという。
昔の話で 大いに盛り上がりました。


 

 帰りの飛行機の中から 日本の象徴 富士山がきれいににえました。

 無事帰国。

2006/01/03
 仙台空港よりチャーター便、バンコク直行便で出発。
角女OG4名。「角田市アジアの農民と手をつなぐ会」から4名。
19歳〜73歳まで男女4名 計8名。
東京から小松先生と手をつなぐ会東京支部長 石丸さん。現地で合流総勢10名。


 現地時間午後4時バンコク空港到着。
飛行時間約7時間の旅です。
空港からバンコク市内ホテルまで 高速道を通って約1時間。
15年前と違って 高速道路が整備され車の渋滞で有名になったバンコク市内は大分渋滞は緩和されたとか。


 ホテルにチックイン後 小松先生と石丸さんと合流。
石丸さんの奥さんはタイ人で、タイ国の著名人 プラティープ先生が伯母さんの当たります。プラティープ先生は、は1978年8月31日、「アジアのノーベル賞」といわれるラモン・マグサイサイ賞(社会福祉部門)を受賞しました。有名なクロントイスラム街の子供の教育環境整備に大きく貢献した方です。
石丸さんの案内で、バンコク市内の有名レストランで夕食。
角女OGの学生さん、タイ国独特のタクシー3輪車 ツクツクを見つけて早速乗りたいと 大騒ぎ。 店までツクツクで直行。
小泉首相も食事した店とか。明日からのイサーン視察を前に英気を養いました。
ビールも飲んでたらふく食べて 一人約1000円。日本人ツアーではこの数倍の値段になるハズ。


2006/01/02
 正月2日は、恒例の消防出初式。
角田市消防団第六分団3部の出初式。
何十年も前から正月2日は 出初式です。


 消防ポンプの機械器具点検をし、分団長からの新年の挨拶。

 その後、集落内の要所で消火栓の点検を兼ね、放水をします。

 また、各家庭を訪問し、新年の挨拶と予防消防の啓蒙活動をします。
正月2日までは、いろんな行事が重なり 忙しく過ぎていきます。


 明日から、 タイ・イサーンへ視察旅行に行ってきます。
今回は、4泊5日という短い期間。
新しい国際協力の可能性を 見出すための旅行です。
少しの間 お休みします。
後で、タイの様子を報告します。
お楽しみに!!


2006/01/01
 明けましておめでとうございます。
今年も、日本とうほく角田から、米づくり百姓の心意気を発信していきます。
よろしくおねがいします。

新年。 東のあぶくま山地から 曇り空をついて 朝日が昇ってきました。
朝日に向かって、今年一年の平穏無事を祈って静かに手をあわせました。


 我が家では、正月 3日になって初めて御餅を食べます。
3日雑煮といって初めて御餅を食べます。
昔からそうしています。 これからもそのようにします。
それが、我が家の生き方です。
神棚に お供えする時の様子です。 12月31日の年とりの夜からご飯に納豆をかけお供えします。 正月3日間は 朝 晩 お供えします。
元旦は、集落内の 新年会。 集落内の皆さんと新年の御挨拶をします。