デジカメ農作業日記 (2011年04月)

2011/04/29

 試験通水をして 漏水個所を数か所修理して臨んだ用水開始だったがその後の相次ぐ余震で 4か所の漏水を確認。

 1500ミリの本管のパイプラインが破損していた。

 急遽 用水運転中止。 特殊な工事が必要だ。しかも、連休になったが 一日でも早く復旧しなければという事で、土地改良区の努力で5月2日 朝に通水する可能となる。

 朝4時半になると朝日が昇ってくる。 日の出が、だいぶ早くなった。


2011/04/28

 阿武隈川から 田んぼに水を引く作業が始まる。

 管内の用水機場が 一斉に動き始まる。 土地改良区の努力で、例年通りの通水となった。


2011/04/27

 例年よりも遅れていた農作業だが やるべき仕事はしなければならない。

 畦の修理は、欠かせない作業だ。 遅れていた桜は、まだ咲いている


2011/04/20

 急に寒くなる。 夕方にはミゾレが降り出し、南の丸森山は白く雪がふる。 春から一転して 冬げしき。

 丸森山の向こうは、福島県。 原発事故の放射能で 苦しんでいる。 原発は、恐ろしい程にコストが高い。 農地を奪われた 多くの農家の思いを想う時 怒りだけが込み上げてくる。


2011/04/17

 朝 5時半集合。 集落の江払い作業。

 例年通り 共同作業が進む。

 野焼き作業があったので消防団で警戒にあたり野焼きをする。

 用水路の手入れは、集落全員でやってもらう。ありがたいことだ。


2011/04/16

 隣町の山元町へ 消防団応援出動。

 一週間前に行って二回目の出動。

 地域の雰囲気が やや和らいだ感じがした。

 常磐線の撤去作業や瓦礫の撤去作業が進む。

 少しづつだが、片付け作業が目に見えるようになってきた。

 午後から西風が強く吹く。

 辺りがガランとなったこともあり、砂埃がもの凄く舞い上がる。

 復旧の道のりは 長く厳しいものがあるだろう。

 しかし、確実に前にむかって進んでいるようだ。

 自衛隊の皆さんによる 行方不明者の捜索が続いている。

 今日も三体の遺体が見つかったという。

 一人は、幼稚園の幼いお子さんだという。

 言葉では、表現できないので写真を多くアップしておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 oo。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2011/04/15

 三回目の苗だし作業。家族総出で仕事する。 暖かな日が続いている。


2011/04/14

 最高気温が22度。20度を超す暖かな日が数日続く。

 桜が、一気に咲きだす。 それも2日あまりで満開。

 早咲きの桜も ソメイヨシノも一気に満開となる。 こんなことは、初めてだ。


2011/04/13

 寒い日が続いていたが、急に暖かくなる。

 最高気温が、20度を超える暖かな日が数日続く。

 いつもと変わらぬ、春の景色が広がる。

 田んぼの土壌改良剤散布。


2011/04/10

 昨夜、またもや大きな余震がくる。

 震度6。 今回の地震は、時間的には短かったものの 揺れそのものは11日よりも強く感じた。 またもや、断水。 復旧には、相当時間がかかるという。

 困ったものだ。 最初の苗を 育苗機から出す。

 これから、ハウスに広げ苗を育てる。 今年も、新しい命が芽生えはじめた。

 桜の開花は、遅れている。 早い年だと、満開の時期だというのに まだ蕾は固い。


2011/04/09

 昨夜 消防団の幹部会議がある。

 隣町の山元町から 消防団の応援要請があり急遽 出動する。

 朝6時半出発。

 山元町役場で 地元消防団と合流。

 今日から二週間余り角田市消防団が交代出動することになる。

 山元町は、福島県との県境。

 国道6号線が海岸付近を通っているところだ。

 津波は国道6号線を乗り越え あぶくま山地の麓まで達している。

 被災地は 言葉では言い尽くせない。

 今回の津波の被害は、東日本雄太平洋沿岸数百キロに及ぶ気の遠くなるような、想像を絶する被災現場だ。

 地震後一ヵ月が過ぎようとしているのに、まだ救援の手が届かないところがある。

 山元町も そのひとつだろう。

 被災現場は、正しく戦場。

 無差別爆撃を受け何もかもが跡形もなくなった光景が広がる。

 民間の手では、手に負えるさまではない。

 自衛隊が特殊な車両を持ち込んで 被災地の片付けと 遺体の捜索にあたっていた。

 消防団の役割は、 被災現場への一般車両の立ち入り規制。

 被災現場に通じる主要道路の入り口で 自衛隊車両や災害復旧車両以外の車両の立ち入りを厳しく規制する役割だ。

 役場で発行した立ち入り許可書を持っている人以外は立ち入り禁止。

 地元の被災者でさえ 車での立ち入りは出来ない。

 被災現場は、テレビや新聞報道写真での比ではない。

 お世話になった地元消防団の幹部も娘さんを亡くしたという。

 震災以後この一ヵ月 娘さんの葬儀の三日間だけ休んだだけで連日 消防団活動をしているという。

 消防団活動が、娘さんの弔いだ と言っていた。

 私が担当した地区は、磯浜漁港に通じるところだ。

 磯浜海岸は、有名な大ぶりなホッキ貝が採れるところだ。

 角田には、虹の園という 社会福祉法人がある。

 その評議員をやらせていただいているが ピザハウス等の事業を展開している。

 ぱぴハウス2号店が 磯浜海岸にあった。

 その場所が 交通規制の仕事場所だった。

 ぱぴハウス2号店は、跡形もない。

 理事長さんの話によれば、地震後直ぐに車で店を視察に行ったという。

 ラジオでは、大津波情報を叫んでいたという。

 従業員は、すでに高台に避難していたが、店の大家さんは、まだ避難していなかったという。

 早く避難したらと言ったが、地震で崩れて所を整理してから行くから大丈夫といって避難しなかったという。

 それから 10分あまり。大津波は、襲ってきたという。

 理事長は、高台の道を帰ったので津波に 遭遇しなかったが、大家さんは逃げ遅れたという。

 その磯浜海岸は 堤防が破壊され70戸の集落があったというが、土台だけが残っていて地上部は何も残っていない。

 こんなことが現実にあるのかという風景が広がっていた。

 磯浜海岸から亘理町にかけて東北でも有数の園芸地帯。

 イチゴの大産地だった。

 土台だけが残っていて荒涼とした風景がひろがっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 常磐線山元駅の駅舎は 鉄骨部分だけを残し無残な姿だけが残っていた

 線路は飴のように曲がり 津波の威力の凄まじさを物語っていた

  磯浜海岸の隣は 福島県新地町。

 福島県へ通じる、海岸線を走っていた県道が、 新地町に入ってすぐのところで 道路が寸断されいた。

 防波堤も無残にない。遠くに新地の火力発電所が見えた。

 太平洋の荒波が押し寄せていた。

 新地浜も壊滅的状況だった。

 今回の震災は、津波の被災地は一カ月過ぎても手がつけられない悲惨な状況が広がり

 そうでない地域は日常の生活が戻ってきている。

 津波は、元気でいきるか そうでなければ死ぬか その二つの選択肢しかなかったようだ

 重軽傷者は殆どいないようだ

 恐ろしい津波の威力だ

 それも あっと言う間の時間で 世界が大きく変わったのだ。

 人は 何を求めて生きてきたのだろうか。

 これから、何を求めて生きていくのだろうか。

 考えさせられた一日だった。


2011/04/08

 パイプラインの復旧作業が続く。

 

 風が強く吹く。

 息子と二人で田んぼの土壌改良剤の散布を行う。

 


2011/04/07

 今年も種まき作業をはじめる。

 例年よりも イマイチ気合いが入らないが、気力を振り絞って作業をはじめる。


2011/04/06

 長男の友人だという人が訪ねてくる。

 関西に住んでいるが、大津波の被災地へ救援物資を届けながら、現場の視察に来たという。 中国人の仲間も一緒にきた。 中国では、有名な作家だという。

 田んぼのパイプラインの破損状況。 復旧作業を急ぐ。


2011/04/04

 例年 一回目の種まき作業が終わっているのだが、種まき作業はまだ始まっていない。 農作業は、一週間遅れている。 種モミを浸漬している容器に 毎朝 氷が張る。 4月になって寒い日が続いている。


2011/04/01

 4月、本来ならば希望に満ちた春。

 しかし、今年は違う。 それでも、季節は例年と変わらず廻ってくる。