先月28日から土地改良区管内揚水機場運転が一斉に始まりました。管内の灌漑用水の殆どは阿武隈川から5か所の基幹揚水機場から取水します。また、阿武隈川から取水された用水は幹線用水路などを通して管内5,000ヘクタールの農地に行きわたるように先人達が知恵を出し用水路を張り巡らせてきた歴史があります。少しの農地でも水を引き、お米を増産すべく開墾してきた歴史があります。つい最近まで全国の農家・農民が一丸となりお米の増産に励んできたものです。(私にすれば、つい最近ですが、もうすぐ70歳を迎える年なったことを考えればひと昔の話になるのでしょうか。)その田んぼが、今や厄介者扱い。時代が大きく変わりました。その変化は4年余りのコロナ禍を経て予想をはるかに超える速さで驚くばかりです。
さて土地改良区で管理している幹線・支線用水路だけでも全長233㎞に及びます。
阿武隈川の水は、揚水開始とともに用水路を通じて一斉に田んぼに引かれ、待ってましたとばかりに
代掻き作業が始まります。 今年は暖かな日が続き苗の生育は順調です。あまりの暖かさで伸びすぎを心配するほどです。気がかりなのは、今年に入ってからまとまった雨が降らず、しかも連日の高温と晴天続きで田んぼはカラカラ乾燥状態。水源の阿武隈川の水位もこれまでになく低下。稲作期間で最も水が必要とされる代掻きから田植えまでの用水を確保できるかが大きな課題となりました。揚水開始とともに管内の主な機場を見回りましたが、いずれの水源は極端に少ない状態です。特に中山間地の河川を通常の一割程度の用水運転しかできない状態です。また ため池の水量も例年よりも少ない状態です。
水源に水があれば臨時ポンプを設置してでも対応できるのですがなんともできません。
コメ作りを諦める農家が多くなったというものの5月の大型連休を利用して田植えを予定している兼業農家はまだまだあります。事務所の職員は、大型連休に関係なく交代で揚水対応にあたります。職員には、用水に関しての苦情や問い合わせが例年以上に多く来ると予想されるので組合員の気持ちを察し丁寧な対応をするように話をしたところです。 連休期間後半まで期待していたほどの雨が降らず用水に関する問い合わせがあったものの心配したほどの苦情も少なく、連休最終日6日から7日にかけまとまった雨が降り一安心しているところです。
昨年から特に感じることですが用水や田んぼに関する苦情や問い合わせが極端に少なくなったといえます。これをどのように理解すればよいのか判断に迷うことです。 米増産時代を経験し兼業しながらも米作りを守ってきた先輩たちが高齢化とコメ作りから後継者が撤退宣言するのを契機に農業そのものを諦める時代になりました。 田んぼを所有するものの、委託耕作に出せば田んぼに行く必要がありません。自ずと米作りに関心がなくなるのは当然です。連休中に苦情の電話が少なくなったことはコメの生産構造が激変していることと関係しているかもしれません。
ところで、つい最近(私にすれば)まで、増産時代のコメ作りを多少にも経験し、その時代の生産現場の熱気を肌で感じてきた私にとって、米作りの原点は大先輩方の田んぼへ熱い思いです。
私の恩人で今は亡き大先輩は、山林地主であったこともあり山林を開墾し5haに及ぶ開田を開きました。山間地を開墾し米作りをするために用水を確保するために知恵を絞りため池を掘り、開田してきました。「目標は(夢)は、一日一俵のコメを出荷するコメ農家なること。米農家として将来を約束された安定した暮らしができる」という決意で開田に取り組んだといいます。
こんな山奥に田んぼがあるのか思えるところに、大金を投じて田んぼを造成しました。山の中に5haに及ぶ広大な田んぼが広がる光景は、見事であり圧巻です。田んぼの要所に、用水確保のための ため池が数か所あります。すべて、計算に基づいた ため池です。
現在でも友人の息子さんが田んぼを守っています。年に数回おとずれる機会があります。平場で米作りをしている我が家からすれば、畦畔の草刈り作業だけでも、数倍の労力がかかります。 平野部では、草刈り作業などは機械化され省力化進んでいます。急斜面の法面を維持管理するには想像を超えるものがあります。周辺の田んぼは、急速に米作りを諦める農家が目立ってきました。 その中で、懸命に田んぼを守っている姿を見るにつけ、頭が下がります。 土地改良区管内の田んぼは、平野部から中山間地まで様々の条件の下で米作りが進められています。 この農地を どのように維持していくか大きな課題です。生き残るためには、時代の変化にどのように対応するかが問われています。
「暑い春」気をもむ米産地。北日本を中心4月に入ってからも記録的な高温が続く。苗管理で注意喚起。
業界紙の一面トップに見出しが躍ります。今年の3月の平均気温が151年前の観測開始以降の最高を観測したといいます。
4月に入ってからもこの傾向は続き11日は、最高気温が25度の真夏日を記録、暖かな陽気が続いています。 土地改良区は、今月28日からの本格的な揚水開始を控え、連日揚水ポンプ機場の試運転や用水路の確認等を行っています。
13日は福島県と隣接する丸森町大内地区の揚水機場の試運転に立ち合いました。 4年前の台風19号の大雨で壊滅的被害を受けた中山間地の田んぼが広がります。いまでは、国など行政機関の手厚い支援と地元の皆様の献身的な努力で立派な田んぼに復興しました。
平野部の田んぼよりも多くの手間暇をかけて田んぼを維持し米作りに励んでいる中山間地の組合員です。壊滅的な被害の田んぼを目の当たりして、一日でも早く復興しなければ心が萎えてしまいます。せっかくの田んぼが荒廃してしまうと心配したことを思い出します。
立派な田んぼに復興し、田んぼに寄り添い米作りとともに暮らしが続いていることに安心しました。 主な揚水機場2か所を見ましたが、水源である川の水量が極端に少なくなっています。 これからまとまった雨が降らなければ、田植え作業に大きく影響するだろうと心配する声が聞かれます。
昨夜から雨が降ったものの湿らす程度で田畑を潤す程の雨は降りませんでした。今年に入ってからまとまった雨は降らず、田んぼはカラカラに乾いています。揚水開始までまとまった雨が期待できないようなことになれば、雨乞いの神事も本気で考えなければと思うこの頃です。
ところで、先月18日に部落の内谷契約会(班員27名)の総会がありました。コロナ禍の影響もあり3年ぶりの対面での総会です。今回の総会でよもやの解散することになりました。残っている記録は、内谷無常講(昭和24年(1,949年)旧暦10月3日。)・吟味帳・ロクシャク順番帳(埋葬時の世話係)・宿順番帳の三冊の帳面があります。
いまでは、内谷契約会と呼んでいましたが、記録に残っている帳面には、内谷無常講 とあり、その帳面は現在まで受け継がれてきました。私が入ったのは平成15年3月。親父に代わって加盟させていただきました。いまから20年前でした。総会で加盟が認められ初めて出席した際には、背広の正装で総会に出席するように言われたものです。
契約会とは別に若者契約会もあり成人となると長男(跡取り)は、必ず加盟したものです。若者契約の宿は、会員の家を順番に回って山盛りのご飯を残さず食べるという習わしがあり、残すと先輩方から厳しく咎められ 泣く泣く食べたという逸話もありました。
内谷契約会は、戦後間もない昭和24年からの記録が残っていますが 内谷無常講は、戦前にもあったはずです。 改めて無常講を調べてみれば、「互いに掛け金を積んでおき、葬儀の費用に充てる互助組織」とあります。
わが家が今のところに移住してきたのが今から200年前です。おそらく100年以上前の明治時代に何らかの形で内谷無常講なる組織はあったはずです。
時代と共に契約会の規約も変わり、 平成13年3月の規約改正にあたり規約の前文に次のようにあります。
「平成13年3月、長い歴史を経てきた内谷契約会吟味帳記録及び盟約的な不文律を代えて、会の運営を規約としてまとめる機運が高まり、検討の結果平成14年3月過去の記録等をまとめてこの規約を採択した。このことによって、歴史的に継承してきた会員の相互扶助の精神が一層深まることを期したい。」とあります。
これまでの葬儀は、契約会が主体で執り行っていましたが、特にここ数年はコロナ禍の影響で会合を持ついこともままならず、葬祭会館主体で準備から葬儀当日まで取り仕切るようになって契約会の役割が少なくなってきたといえます。
この2年間でも不幸が重なり27名の会員の中で9回の葬儀が行われましたが葬祭会館に依頼すれば難なく葬儀を過ごしてしまう時代を経験してしまったこともあります。
葬儀のありかたもコロナ禍の影響で、これまで耳にすることが少なかった家族葬なるものが普及し、何をもって家族葬なのかもままならず、旧態の葬儀と家族だけの葬儀のやりかたが混在する葬儀が続いています。
ここ数年は、契約会の規約は現代社会にあうように簡略化するなど現代社会にあった相互扶助精神にもとづいた組織に改編しようとしていた矢先でした。
総会の席上、会の存続はそれぞれ自ら意思表示でやるということで賛否をとることに。存続に賛成 26名中3名。反対23名。圧倒的多数であっけなく内谷契約会は解散することになりました。
これまで、当たり前のように延々と続いてきた従来の組織がコロナ禍で対面での会合や会議などが大きく制限され、時代が大きく、急激に変わっていることを実感しました。人は一人では生きていけません。暮らしを続けていくために時代の変化に如何についていくか。自分に問われています。
三月に入り夜明けが早くなりました。気温も上昇、数日前には最高気温が20度を超え5月下旬の陽気になりました。一気に春本番を迎えました。わが社でも例年通り育苗用の床土準備や種もみの塩水選など、本格的な農作業が始まりました。
12年前の3月11日。東日本大震災が発生。津波被災地は、未曾有うの大災害を被りました。テレビや新聞などでは、大震災の記憶と教訓を風化させまいと特集記事や特別番組が目立ちます。
この原稿を書いている最中に、携帯電話が鳴りました。震災の津波被害などで大きな被害を受けた石巻の知人のHさんからです。以前、NHKのラジオ深夜便の通信員をしたことがきっかけで知り合いになりました。年に一回ほどの電話でのやり取りのお付き合いです。今年で82歳になるといいます。
12年前、震災の際わずかながらお米や物資をお届けしたのを今でも感謝している、震災に関するテレビ報道をみて12年前を思い出し電話をしたといいます。ただただ、恐縮するのみです。
また、コロナ禍がはじまり3年が経とうとしています。徐々に収束の気配が見えてきたもののコロナ禍は、これまでの暮らし一変させました。特に身近感じることは、マスク姿が「当たり前」になったことです。
日頃からマスク姿には抵抗を感じていたもので、つい忘れることがあります。買い物や人と接する場所にマスクを忘れていくものなら罪人扱いにされるような視線を感じます。この3年間でマスク姿は常識となりました。
昨年7月から事務所勤務になり当然マスク姿を通しての仕事は当たり前です。先日職場の歓送迎会あり、久しぶりの飲食を伴う会合です。会話が弾みマスクを外して会話をたのしむことができました。特に最近就職した人は、マスクを外した顔を初めてみるという職員さんもいます。
やはりマスク顔よりもマスクなしの素顔がいいですね。「口元がほころぶ」「愛らしい口元」などといいますよね。早くマスクなしの素顔の会話が当たり前という生活に戻りたいものです。
ところで、昨今の相次ぐ物価高には驚くばかりです。土地改良区は総代会を控え来年度予算編成の最中です。特に電力料金の高騰は事業運営にも大きな影響があります。本年度当初予算は、約6千万を計上しましたが、東北電力に確認したところ来年度は倍の1億2千万を計上することになりました。
これには本当に頭が痛くなります。土地改良区は、収入の殆どを組合員の農地に経費を賦課しその賦課金収入を基に事業運営をします。組合員が健全な経営状態であれば賦課金も順調に収めていただけます。昨今のコメ作りを取り巻く環境は、厳しさを増すばかり。生産コストさえ賄えない低米価と生産資材等の急激な高騰などで経営は限界に来ています。
「生産資材や他の食料品はあがるのに、なんで米だけがアガンネンダヤ」という素朴なボヤキが聞かれます。ほとんどのコメ農家は作れば作るほど正真正銘の赤字続き。米作りを諦める農家が続出。米作りが成り立ってこそ土地改良区の事業も成り立ちます。
米農家の組合員からすれば、改良区の存在は最も身近な存在。それがゆえにストレートに「米作りが大変な状況が分かっていながら、なぜ賦課金を上げるのだ」という抗議の声いただくのは目に見えています。来年度の予算編成にあたり収入源である賦課金収入には手を付けず、積立金の取り崩しや用排水費などの経常経費を見直しすることで予算を組むことにしました。
このまま電力料金などの高騰が続けば近い将来、賦課金の増額を求めざるをえません。改良区としても事業運営コストの削減の努力を示さなければ納得できる予算は組めません。職員には、「給料は、組合員からの貴重な賦課金をもって支払われている。常に頭に入れながら仕事をしてほしい」と話しています。
さて、最近気になることがあります。世界的インフレの進行と相まって、ウクライナとロシアの戦争を契機に食糧危機を唱える意見や食糧の国内自給率に対する見解を目にすることが多くなりました。それでは、国内の食糧生産の現場に対する現状認識がどれほど深まったかは疑問です。
多くの消費者の皆様にとって、食糧危機は常に他人事でしかないようです。いつでも何とかなる。食べ物がなくなれば人は生きてはいけない。人間の生存にとって必要不可欠の物の一つ。これは誰しもが理解していることです。あまりにも「当たり前」のことで 「当たり前」だからこそ常に食糧が溢れている現実になんら疑問すら感じなくなっているようです。
人は、「当たり前」のことに対して金銭的対価はみいだせないようです。あまりにも「当たり前」すぎて身近にあることが「当たり前」であるがゆえに、お米は常に安価に購入できるのも「当たり前」。
これに対し生産者の立場からすれば、再生産できる収入があってこそ、米作りが続けられるという「当たり前」ことが「当たり前」でなくなり米作り諦めるとうことは「当たり前」のことです。
消費者皆さんの「当たり前」と生産現場の「あたりまえ」。「当たり前」のことが互いの暮らしの中で共有できない現実に歯がゆさを感じる日々です。お店にお米がなくなって初めてお互いに「あたりまえ」になる。そんなものですか。
いま、角田の田んぼは一面銀世界が広がっています。一昨日夕方から降り出した雪は、夜半まで降り続き朝まで20センチを超す大雪となりました。今朝は、孫たちがソリに乗り大喜び。
今年は、一昨日までこれまでにない暖かな新年を過ごしていました。北向きの日陰にも雪はなく、しかも土も凍みていませんでした。例年ここ角田は、旧暦正月を過ぎる頃に 雪が降りだします。
新春に南岸低気圧が北上し東京などに雪が降るとほぼ同じに角田も雪が降るようです。人は本当に身勝手なものです。雪国の人には申し訳ございません。被害につながる大雪は困りますが、多少の雪は心が落ち着きます。
今年の冬は、暖かいと感じる人、寒いと感じる人と様々です。極端な気候が続いているからでしょうか。それにしても、今年の夏の天気が心配になります。
今月初めに隣村の諏訪神社の「筒がゆ目録」を授かってきました。今年は、二枚授かりました。我が家と事務所の分です。
宮司さんによると「筒かゆ目録」を授かる人は年々少なくなっているといいます。先日、事務所の朝礼の際、目録の話をしましたが知っていたのは、再任用した一人だけ。他は全く存在すら知りませんでした。
そこで、目録の由来を少しだけ話しました。 仙台藩主 伊達政宗が初陣の際、諏訪神社に祈願宿泊した際、ちょうど小正月を迎える「筒かゆ目録」の神事であったため、戦いに勝利した褒美として遠く岩手県内まで及ぶ伊達藩領内に作占い「筒かゆ目録」の販売権を認めていただき今日に至っている・・・・・。
天気予報は、スーパーコンピューターを利用するようになって当たる確率が高くなったが、長期予報に関して全く当てにしていない。「筒がゆ目録」が今でも信頼性が高いと信じている。自分にとって今でもコメ作りの目安。改良区の仕事は、お百姓さん相手。しかも、自然相手の仕事。神様云々という気はない。
日本に何千年も前から伝わっているもので、新興宗教のようにお金がかかるものではない。身近な諏訪神社を農の心のよりどころとして自然の全ての神様にたまには手を合わすことも悪くはないのでは・・・・・。
さて、今年の作柄は全般に良い、という結果がでました。神のみぞ知る。基本に従って日々の仕事を真面目に積み重ねるだけ。神様は、毎年そういっています。
ところで、昨年末に資料を整理していた際、令和元年10月・台風19号による大雨による大水害時の被災状況の記録写真(国土地理院ホームページ・空中写真閲覧サービス)を職員から紹介され、当時の(角田・丸森地区)伊具盆地被災状況・空中写真を見て唖然。
当時は稀にみる大雨で私の集落も水没、4日間ほど孤立状態。隣町の丸森町は多数の死者が出たことから全国ニュースになる大惨事となりました。同じ伊具盆地にある角田市もニュースには大きく取り上げられなかったものの盆地特有の地形と相まって、丸森町に降った大雨は角田市内に流れ込み大水害となりました。
確かに大雨だった記憶は鮮明に覚えているものの、空中写真による角田市内の水害状況を目の当たりにして衝撃を受けました。この貴重な写真を角田市・丸森町の多くの皆さんに見てもらうことが、地域づくりを語るうえでの一丁目一番地だとの思いを強くしました。
早速、担当課長と相談し、約40枚の空中写真をより見やすくなるように編集してもらい関係機関に配布することにしました。私の村には、今から約百年前・昭和初期に当時としては東洋一の国営江尻排水機場があります。曾祖父も建設に携わったと聞いています。
40年前に改築され現在でも日本屈指の排水機場として活躍しています。建設当時の経緯は聞いていたものの、なぜ日本一の排水機場が必要であったのか。藩政時代から水害常襲地帯だったといわれてきたものの、写真を見れば一目瞭然。言葉はいりません。
伊具盆地のほぼ中央を東北の大河「あぶくま川」が流れています。福島県・奥会津を源流として宮城県から太平洋に流れています。伊具盆地は、フライパンのような地形です。四方を山に囲まれ南の丸森町から北の角田市国営江尻機場までは、ほとんど高低差がない県南一の広い水田地帯が広がっています。
排水機場なくして地域内排水ができないのです。角田市は国営江尻排水機場が生命線なのです。街づくりを考えるうえで教育・文化の重要性は理解できます。教育・文化は人が安心して住んでいればこそ必要です。排水機場の強化なくして角田市の街づくりは語れません。
現在、国では農水省を中心に国営総合農地防災事業を立ち上げていただき、地域防災・減災のために果たす農地の重要性を再認識し、農地ばかりでなく地域内排水を考慮した新たな事業を進めていただいております。
事業採択に向けて農水省をはじめとする関係機関の皆様や国会議員の皆様、そして角田市長・丸森町長が先頭に立ち強力にご理解をいただくためお願いしているところです。
さて、排水機場の維持管理経費は、行政からの補助金をいただきながら土地改良区が事業委託を受け運営しています。農水省事業のため、経費の一部は組合員からの賦課金で運営しています。しかし、昨今の農業情勢から稲作農家が激減しています。加速度的に担い手農家に農地が集まってきました。
土地改良区の賦課金は農地に賦課します。地域の田んぼを預かった担い手農家の負担が多くなるばかり。せめて地域の排水費は市民全体で賄うことにしなければならないとの思いを強くします。
明けましておめでとうございます。今年も 宜しくお願い致します。
昨年4月社長を交代し、7月から土地改良区の常勤理事長に就任しました。これまでの通信でもお伝えしましたが、稲作経営は、すべて次男の新社長に任せました。 経営に関しては、殆んど口出ししません(口を出すと文句をいわれ、取り合ってもらえないのが実情ですが)。 それにしても、なんとも歯がゆい時間を過ごしてきました。 それでも、農業経営に関しては、従業員の皆様のご理解とご協力をいただき無事に新年を迎えることができました。 取引先の皆様や個別のお客様には、あらためてご挨拶の機会もなくご不便やご迷惑をおかけしましたことと存じます。お詫び申し申しあげますとともに、格段のご配慮をいただき心から感謝いたします。 今年も相変わらずご指導とご協力をお願いいたします。
今年は、正月4日から仕事はじめです。我が家の仕事始めは11日の「農のはじめ」を過ぎてから、本格的な農作業をはじめることとしてきました。 今年は正月の最中の4日から仕事がはじまりました。正月気分を味わう暇もありません。土地改良区の常勤役員になったことから公務員と同じカレンダー通りの勤めが始まりました。 ごく普通の人生であれば、人生70歳を一区切りとして、終活を考える時期です。残りの人生は、誰にも遠慮することなく自分で好きな時間を過ごしたいものだとはよく聞く話です。70歳をまえにして、人生はじめて自営業からサラリーマン生活です。 勤め仕事が始まったものの1月11日は、我が家の仕事始め。 今年は、勤めがありますので、夜が明けるのを待っていつものように米俵に飾ってあったオガン松を下ろし、田んぼに持っていき、簡単な儀式を行いこの一年の農作業の安全と豊作を祈願しました。
新年を迎え、日が暮れる時間が夕方5時を過ぎても明るくなったものの、夜明けの時間がさほど早まらず朝7時過ぎてから朝日を拝みます。夜明けるのが待ち遠しい時期でもあります。 コメ作りを始めて50年になります。毎年、地球温暖化を体で感じながら「農のはじめ」をしてきましたが、今年ほどの暖かさを経験したことはありません。昨年末から雪らしい雪が降らず、しかも気温も異常なほど高く、これほどの暖かな正月は初めてです。北向きの路地や日陰には、今の時期は多少なりとも雪があり土は凍みているものです。今年は何処にも雪はなく凍みてもいないのです。 通勤するにはたいへん楽ですが、今年の夏のお天気がとても心配になります。お天気様は確実におかしくなっています。 また、難しいことは分かりませんが、物を創り出す仕事、農業のみならず、あらゆる分野で汗をかき時間をかけて身につけてきた技が消えかけています。
ところで、土地改良区は、農地を持っている農家が組合員です。5,000名の組合員がご主人様で、組合員の信任を得て組合事業運営を任されています。今回、その責任者として云わば雇われ社長でありサラリーマンになったといえます。サラリーマンの定義は、いろいろあるようです。我が家はこれまで、農業以外の仕事で定期的に現金収入を得た者は、誰ひとりいませんでした。常勤役員として初めて勤めた私にとって、サラリーマン生活が如何なるものか実感する日々です。 土地改良区の仕事に関しては、役員も経験していましたが、いざ責任者として内部にはいると初めての経験ばかりです。関係機関との調整などは、ある程度は心得ていましたが、職員の皆様が日々の仕事に前向きに取り組める環境を創ることに関しては、初めての経験であり戸惑う事もあります。 これまで、お天道様の下で、全てが自分の意思で、 時間も自分で自由に使い、仕事とはいえ好きなコメ作りにこれまでの人生の全てを使ってきた生活です。しかも、 仕事の結果に対しては、全ては自分の責任。 愚痴はいっても、自分に返って来るだけ。誰に遠慮することなく言うことは言う。その責任は、自分でとる。 その覚悟で生きてきた70年です。 ある程度は予想していたものの、人様の気持ちに寄り添い目標を一つにして仕事を進めることの難しさを 痛感させられる日々です。組合員の暮らしを支えることが 私に与えられた最大の役目です。しかし、職員一人一人にも家族があり、それぞれの暮らしを支えるため働いてもらっています。職員の暮らしを支えるためにも改良区の組織を守る責任もあるのだと思う頃です。いま農業情勢は、極めて厳しい状況にあります。同じ農業団体のJAや農業共済組合が時代の流れの中で大規模な組織改編や厳しい事業展開を余儀されている現状を見るにつけ、世の中の動きや環境の変化に対応できなければどんな組織も存続はありえない。改良区は、大きな役割を担っているにもかかわらず、ここ10年来その存在すら分からなくなっています。土地改良区は極めて閉鎖的な組織として存在し、世の中の動きに極めて鈍感な組織になっています。 これでは、組織の存在すら危ぶまれます。先ずは、職員の自信と誇りを取り戻すことからはじめます。今年は3年前の大水害を踏まえ、国営による大規模な地域排水事業プロジェクトが検討されそれが実現するか正念場の年を迎えます。大事な年になります。
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